Vol.10 グレイシア

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。



皆さんいかがお過ごしでしょうか。

世間ではコロナくんとかいうアクティブな陽キャが国を越えて飛び回ってる昨今です。本当に陽キャってやつは、なんでああも人様の迷惑になるかどうかの分別がつかないんですかね。「生きたいように生きる」、それが陽キャ座右の銘だという風に言われていたり言われていなかったりですが、到底理解し難い価値観でございます。え?わたしですか?わたしの座右の銘は「自分と美人には嘘つかない」です。ちなみにこの座右の銘、男ウケは悪いです。


さてさて、コロナのせいかわたしの人生がただただ空虚なせいか、しばらく御無沙汰になってしまいましたね。今更ながらお詫び申し上げます。
ブログにするほど中身のある話がなかったもので、随分空いてしまいました。

以前と変わらず空虚な日々を無駄に布団の上で過ごすばかりではあるのですが、いささか空虚にも限度があるという訳で、こうして筆を取っている形になります。
面白いかどうかは保証しかねますが、まあおうち時間(笑)の一環としてお付き合いいただければ幸いです。


コロナのおかげで家から1歩も出ない生活をしていると、いくらインドア派のわたしでも退屈に感じて数少ない友だちに電話をかけてみることもしばしばなのですが、電話をかけたところで「コロナヤバくない?マジヤバくない?」とギャルより拙い語彙でしか会話ができなくなっている今日この頃。仕方なしに、ギャル以上の語彙を持つ友だちを探す訳ですが、あの頃は利口だった友だちも大学という名のぬるま湯に染まり、もはやチンパンジー以下の語彙になる体たらく。全く見てられません。「こういう奴がクラスターになるのだなぁ」というギャルなりの悪態をそっと胸のうちにしまい、電話を切って溜め息をつく訳です。マジウケる。


就活など呼ばれるクソしょうもない自慢大会も相まって、最近自分の身近な人間について考えることが増えてきました。そうして顔を思い出していると、近況が気になったり昔話に再度ムカついたり様々で楽しくなり、またとりあえず布団でまったり過ごしてしまう。これは決してわたしに落ち度があるのではなく、思い返すだけで予期せずにも眠れてしまいそうなくらいマヌケな顔をした友人各位に非があることは御理解いただきたい。

美人の顔を思い出すときは元気良く夜更かしをするのですが、生憎そういった知り合いは知らない間にわたしという陳腐な器には収まらない器量になっていることがほとんどです。どうしてこうも美人は世渡り上手なのか。せめて社会適合能力くらいはこっちに分けてあげてもいいと思わないか?
この嘆きの裏には「美こそが社会を形成する、醜は社会に淘汰される」という残酷すぎる真実があります。コロナのおかげで学校がなくて喜んでいるような、青春を素人のブログを一読してドブに捨てている学生読者各位には心当たりがあるかとは思いますが。


青春というものをドブに捨てるどころか、小学生の頃にクソしたあとに「これどれくらい使っていいんだろう…!」とワクワクして引っ張りまくったトイレットペーパーみたいな使い方をして汚水に流したわたしも、無理くり中高生活の想い出を振り返ると、印象深い縁のひとつやふたつくらいはあり安堵しています。

その中からひとつ、今日はここでお話しようかなって思っている訳です。

びっくりしました?ここまでオープニングトークです。やりたい放題ですよねこいつ。話が長ぇよってな。素人がイキるなって。ほんとダセえなぁって。まあまあ皆さん、コロナのストレスをわたしにぶつけるのもその辺にしていただきたい。そろそろ泣いちゃいますよわたし。


彼は中学の同級生で、中1のクラスが一緒でした。もっとも、わたしは中高一貫校に通っていたので彼とは高校も一緒なのですが。

出席番号も大して近くなく、お互い陰キャの顔をしていましたから、最初に中学の最寄り駅で見かけたときは「そういやクラスにこんな顔のやつ何人かいたなあ」という程度でしかなかったです。男の顔を逐一覚えて一喜一憂するほど暇じゃないので。
美人の顔だけ覚えてた方が幸せに生きられるって信じてます。

お互いゲーマーだったのもあってそこそこ仲良く過ごしてたんですが、同じくお互いに女好きだったせいで「用があれば連絡する」みたいな距離感であったことは確かです。
あ、別に女好きだからって実際に女の子とイチャイチャできた訳ではないですよ。早とちりなさらぬよう。彼とわたしのあらぬ噂が広まったら大変です。2人とも純粋でキュートなシャイボーイだということは頭の片隅に置いておいていただきたい。



ただですね、わたし、彼のこと好きじゃないんですよ。



2人ともガリガリで、ゲーマーで、女好きで、目が悪くて、陰キャで、小学校の頃好きだった女の子の名前が同じで。



こんなんムカつくんですよ。どちらかがどちらかの二番煎じみたいで。ふざけんなよほんとに。生き写しみてえなのが出てきやがって。どちらかがドッペルゲンガーではないかと思ったんですが、どちらも消滅していないところを見るとどうやらそうではないらしい。


ずっとずっと、わたしより中学の頃は成績が良かったのが気に食わなかった。わたしより運動できるのが気に食わなかった。わたしよりゲーム全般上手いのが気に食わなかった。


お前もそうなんじゃないのか?


似たもの同士のくせに、お前より身長が高くて、女の子とこっそりイチャイチャしてて、文化祭ではイキイキ接客してて、姉貴がいるおかげでバレンタインチョコを毎年多く貰ってる俺が気に食わなかったんじゃないのか?


なんて、最近そんなことを思います。


中学の頃は成績が良くて、学年でもトップクラスだった彼が、高校に上がったらわたしと大差なくなってたとき、なんかショックだったんですよね。

中学の頃から彼の身長がほとんど伸びないのを見てるのも、彼の大学受験の結果が奮わなかったのも。どことなく淋しかった。


口先では言うんですよ。「ざまあみろ」って。「お前なんてどうせそんなもんだ」って。そうすると腹立った顔でぐちぐち小声で文句言ってくるんですよ。まあ、それ見て「ダセぇぞお前」って煽るんですけど。



ふざけんなよお前ほんとに。お前がこんなとこまで堕ちてくんじゃねえよ。お前はちゃんと上にいやがれ。お前は大学入って眼鏡をコンタクトに変えたってモテねえんだから諦めろ。眼鏡のままでもごく稀に女の子とイチャイチャしてるわたしを見習えバカ。ブログだって絶対わたしの方が面白いからな。こうやって“負け惜しみ”を言わせてくれよ。


上に立ってるお前をジャイアントキリングして、俺が主人公になるんだよ。それまで上でふんぞり返って待ち構えていやがれ。クソ野郎。



とりあえず、お誕生日おめでとう。「ブログ読んだよ」って言ってきたら飯くらい奢ってやるよ。お前どうせ読まねえだろ。こんなところで不特定多数にお前の身長が低いことをばらまかれてるっていうのに、どうせお前はポケモン厳選でもしてるだろ。そういう奴だよお前は。昔わたしに負けてるくせに。



ぜっっっっっったいにわたしはお前にだけは負けないからな。あらゆる分野で。絶対にボコボコにしてやる。絶対にお前の嫁より美人な子と結婚してやるからな。式には呼ばねえけど。



だから、お前も俺なんかに負けるなよ。お互い病弱なんだからくれぐれも体には気をつけて。

Vol.9 春を知らせるカエル

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。


お久しぶりですね。楽しみにしてくださってる方には申し訳ないです。シンプルに書くことがなかったもので。


そのー、字数が多くなりがちというか。字数が多くてこそ楽しめるみたいなところあるじゃないですか。わたしのブログ。

書くことがないとね、どうしても踏ん切りがつかないというか。「泣かせなきゃ(使命感)」みたいなものがあった訳で。しばらく空いてしまいました。いやあすいません。

まあ、御挨拶も程々に、そろそろちゃんと書きますか。元々卑屈なのに、さらに謝ってばかりじゃウザったいですよね。いやはや、自覚はあるんですがなにぶん性分なもので。申し訳ない。また謝っちゃった、まあいいや。



えーっと、そのー、今回の内容なんですけど。


ないです。いやマジで。ないです。


諦めました。泣かせられる話なんてねえよ。もう恋愛系もやりすぎでしょうし。

なんていうか、今回は雑談ですね。雑談でも話が持つのかっていうチャレンジです。
もちろん、楽しませようと思って書くので、どうかお付き合いください。
現状オチも方向性も決めてないですけどね。どうなることやら。



まあ、つらつらやりますか。



唐突なんですけどね、わたし唐揚げが好きなんですよ。
いやほんとに唐突だなって?わたしもそう思う。

あれが結局1番美味いんですよね。サクッとした衣とひと口噛むと溢れ出すお肉の旨みがたまりませんのです。

塩がいいね。塩唐揚げ。タルタルソースでもいいけど。醤油唐揚げはまあ許してあげなくもないですかね。

塩唐揚げ好きに教えたいんですけど、ほっともっとの唐揚げ弁当マジで美味いですよ。うちの近所にはないんですけど、以前1回だけ食べたことがあって、美味しさに感動しました。ほんとアレはマジで美味いよ。300円前後だったと思うのでぜひ買ってみてほしいです。

ちなみにマヨネーズは論外ですね。唐揚げに対する冒涜ですよ。「ナメとんか?」って感じです。あまりにもキレて、一時期“唐揚げにマヨは邪道”ってLINEグル作ったことあります。(?)


…お腹空きましたね。これ打ってるの徹夜明けの朝5時半なんですよ。ありえないくらいお腹空きました。ヤバい。なんでこんな書き出しにしちゃったんだろ。


あー、えーっと、なんの話でしたっけ。あっ、そうそう、わたしと結婚する人はぜひ唐揚げとCookDoの回鍋肉は美味しく作れてほしいって話ですよね。あれ?違いましたっけ?じゃあとりあえず今のだけは女性の読者の方は覚えておいてください。



茶番はさておき。



昨日ね、初めてゲイのカップルらしき人を見たんですよ。
あ、ゲイじゃなくてホモって言った方が正確なんでしたっけ?あまり知識がないので分かりませんが、確か男女問わず同性愛者のことを“ゲイ”って呼ぶんですよね、本来は。間違ってたらごめんなさい。

多分ゲイ呼びの方が伝わると思うのでとりあえずそっちでいきますけど、そのー、ゲイのカップルの方々をね。見まして。電車の中で。

まあまあコワモテの、ガテン系のお兄さんたちだったんですけど。相手の膝の上に手を置いてね。肩を寄せあって。イチャイチャされてたんですよね。
アレはもう記憶飛ばすほど酔ってるかゲイの方々かじゃないと説明できないなあ〜って感じでした。

別に抵抗があるとかそんなんじゃないんですけど、なんか興味本位で観察してしまって。初めて見たし。ちょっと失礼な話ではあるので反省はしてるんですけど。

ずーっと、って言っても1駅とかだったんですけど、まあ見てて、なんていうか、凄く羨ましいなあって。

仮に男女のカップルが似たようなことしてても「やってんなあ」というか、まあ酷くても心の中で舌打ちして終わりですよ。

男性同士ってだけである程度目を引くことは避けられないのに、それでも人目を気にせずイチャつけるって凄くないですか?なんかビックリしちゃって。「この人たちほんとにお互いのこと好きなんだろうなあ〜」みたいな。


なんか、ゲイのカップルってなんとなく激しくイチャイチャしてるようなイメージないですか?結構ガッツリ腕組んでたり。いや、もちろんイメージだし実際は分からないんですけど。

それくらいしてくれないとカップルだって分からないとか、二丁目みたいなイメージの先行もあるんでしょうけど、なんとなくゲイって自分の世界に入るの上手そうなんですよね。ゲイバーにいるゲイはなんかひと味違うアドバイスをしてくれそうなのに近いような気もします。


しかしながら、なんと言いますか、初めてゲイカップルを間近で見て思ったんですけど、あの人たちって自分たちの世界に入るのが上手いんじゃなくて、単純に“自分たちの世界”で生きるしかないんだろうなって感じたんですよね。

というのも、例えば男女のカップルってよくある組み合わせですし、社会側、つまり見ている我々が大して特別視しない。だからカップル側も抵抗なく社会と関われる。“社会で生きるカップル”でしかない。

でも、同性愛者のカップルは違う。どうしても我々社会側が歪んだ見方をしてしまう。“社会からははみ出したカップル”にならざるを得ない。


そりゃ、自分たちの世界に入らないとやってられないなあって感じですよね。


クラスの隅でずっと生きてるカースト最底辺のやつが休み時間は丸々寝たフリしてるようなアレに近いんですかね。あっ、これは自己紹介じゃないですよ。別に体験談とかじゃないです。ほんとに。勘違いしないでよね。


ともかく、自分たちの世界に入って好きなものを「好き」だと伝えている彼らを見ていると、凄く羨ましく、淋しく、そして憎たらしくなってしまって。


まあ、わたしたちも世間的には“オタク”と揶揄される人種な訳ですけど、それと一緒にするのはなんとなく失礼な気がしますよね。
好きなものを好きと言ったところで相手も金貰ってやってますからね。ある程度こちらの理想通り動いてくれるのは必然な訳で。


同性愛のカップルって、「社会からどう思われようといい」とか、「相手からどう思われようといい」って、告白とかイチャイチャするとかのタイミングで1回は思わなきゃ成り立たないんですよね。この世が世知辛いばっかりに。
それを乗り切っているんだなあと思ったら、なんか不思議と感心してしまったり、自分と比べて少し虚しくなってしまったりしてしまいました。


社会というものがわたしたちのような“はぐれもの”に手厳しいのは御存知だと思いますが、というか“はぐれもの”にしか読まれないと書き手が決めつけているこのブログもどうかとは思いますが、ともかく、何したって手厳しいんだからあっけらかんと受け入れるしかないんですよね。社会の理不尽を。

…今更ながら、読み手には「なんでこいつこんな社会に嫌な思い出しかないんだ?」って思われてそうですね。まあ、ブログに書いてないような話もありますけど、基本的には社会不適合者なので。アレルギーみたいなもんです。世知辛いね。まあ、この話は後日。99%ブログにはしませんけど。まあいいや。



わたしはジャニーズの嵐が好きで。特に二宮くんが好きで。その場でキレのあるツッコミをする彼の器用さが憧れで。

わたしは歌手のaikoさんが好きで。いろんな人の恋愛に寄り添い受け入れてくれるあの歌が大好きで。時には淋しい夜に一人で聴き込んで。

わたしは女優の深川麻衣さんが好きで。ひたむきに努力を惜しまないあの人を尊敬していて。たまにお茶目なところも愛らしくて。



気がついたら、全部言えなくなってました。アイドルが好きとか、ラブソングが好きとか、そういうの。20歳前後の男子。多感だしね。


なにより、“はぐれもの”になるから。


受け入れられる場所を選んで選んで選び抜いて、気がついたらこんなところにいました。リア友から「お前もうブログ公開して収入源にしたら?ログイン数多いとお金になるらしいよ?」と揶揄される始末。何たる不覚でしょう。こんな闇鍋みてえなブログが金になる訳ねえだろ。ぶっ飛ばすぞ。



「社会不適合者」って言葉もズルいですよね。逃げ道として使いやすすぎる。コレ自称してれば社会に適合しなくていいからね。めちゃくちゃありがたいよ。

社会に適合できないわたしが悪いのか、わたしを適合させない社会が悪いのかはFラン大学生には判断がつきませんが、とにもかくにも、“はぐれもの”として、“社会不適合者”として、全部てめえで受け入れてやるしかないんですよねこれが。はーあ。嫌になるね。


自分で自分を受け入れる。いや、そんな甘いものではないのかもしれません。


自分で自分を好きでいる。自分で自分を救ってあげる。そういった、主体性なんてものも日々を生きるためには大切なんだろうなって。そんなものは胎盤に置いてきてしまったわたしだからこそ、深く感じます。皆さんはちゃんと持って生まれてこれましたか?おめでとうございます。



現在、深夜5時半。もはや早朝ですが。

自分で自分を救ってあげられない人間の末路がコレです。

深夜にネットで不特定多数に言い訳をほざく、未来があるはずだった哀れな若者と化していました。

でもなんでしょう。不思議と嫌いじゃないんですよね、今の自分。ふてぶてしくて。


こうして、自分を好きでいようとしてあげてみました。





窓から隙間風が抜ける。今日も、肌寒いらしい。




Vol.8 プラマイ

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。


いやあのさ。ほんとさ。急なんですけど。書く気なかったんですけど。やっぱ書きますわ。


マジで好きでいるのやめられないんだけど。これほんとどうしたらいい?



まあキャスとか来てくださったりわたしのツイートチラチラ見てくださったりしてる方なら分かると思うんですけど、例の先輩とサシでご飯に行きましてね。散々腹割って話してきましたよ。


「ずっと好きでした」「ていうか今も好きです」「誰よりも幸せになってくれないとマジで許さないですからね」「あなたほど素敵な女性いないんですよ」とか普通に言ってたと思いますね。え?開始早々キツい?もういいじゃん。許せよ。ずっと聴いてた当の本人は許してくれてたぞ。多分ね、多分。


これずっと、読み手の皆さんからすると少し疑問だったと思うんですよ。「なんでこいつこんなこと恥ずかしげもなく話せるんだろう?」って。


その答えは物凄く単純明快で、本気で好きだからですね。


わたしがその先輩を好きでいる以上、“その先輩のことを好きでいる自分”のことも好きでいる義務があると思うんですよ。むしろそれが果たせなくなったときが恋の終わりというか。

「○○さんのことが好きです!でもこんなこと恥ずかしくて人に言えません…」って冷静に考えたら訳わかんないと思うんですよ。だからわたしは今の自分のことが好きだし、だからこんなに好き放題喋れている訳で。


あとまあ、この言葉が適切かは分かりませんが“プレミ”をしていないつもりっていうのもあるかもしれません。あ、ゲーム好きにしか分かりませんかね、“プレイミス”のことです。

自信を持って言いますけど、わたしは誠心誠意口説きましたし、今から振り返ってみても当時できる最善手をハスらずにできたと思ってます。

笑われようがなんだろうが、あのときは全力でやれることはやりましたから。少なくとも“恥ずかしい”という感覚はわたしの中にはないです。むしろこれだけガチで恋愛しておいて恥ずかしがってたら、もう一生結婚できないでしょうね。


まあそんな話はさておき。


昨年末にわたしがご飯に誘い、年明けてから改めて先方から「ご飯行こうか、いつにする?」と仰っていただいた訳なんですけど、正直、大して嬉しくなかったんですよね。

前回のブログを読んだ皆さんなら分かるかなあとは思うんですが、もう“恋愛感情”は捨てたので。なんというか、「半年ぶりに会う高校の同級生との呑み会」くらいの喜びしかありませんでした。

まあそりゃ、昔すっぽかされたことがあるので、「今回は連れてってくれるんだ、ありがたいなあ」とか「3年間好きだったし、相手にとって大切な“何かしら”ではあったのかなあ」とかそういう喜びはありましたけど。
でもなんというか、“好きな人”とご飯に行くっていう喜びはなかったですね。凄い喪失感でした。彼氏がいるって聞いたときよりショックでした。


唐突なんですが、エネルギー保存則ってご存知ですか?高校物理なんですが。
「物体が運動している間、外的要因がなければその物体に属するエネルギー量は一定である」とかそんなやつです。私文の理解なので間違っていたら申し訳ないです。

これって、人間にも当てはまると思うんですよ。

例えば、わたしに属するエネルギーの総和が100だとします。
わたしは生きていく上で、“100”という数値は一定で、これをどこに割り振るかだけが決めるようなもんだと思ってるんです。
そうですね、「バイトに30、勉強に30、Twitterに40」みたいなイメージですかね。時にはTwitterが50になったり60になったりして、その分他が減る…というような。伝わりました?

わたしにとって“好きな人”って、冗談抜きで80-90くらいは占めていたと思うんですよ。そりゃね。今までの半分くらいのブログが恋愛ネタですし。それしか考えずに数年生きてきたようなもんですから。


なんか、ご飯に誘っていただいて大して嬉しくなかったとき、「わたしの3年間もこんなもんかあ」というような。わたしの中にあったほとんどのエネルギーって、一体どこに行ってしまったんだろうかと。“空虚”でしたね。
パーティーが始まる前は凄く豪華に盛り付けられていたのに、終盤になるとみんなの食べかすしか残ってないお皿を見ているような。そんな気持ちでした。


いつだったか、「失恋」ってなんだろうって思ったんですよね。両想いならともかく、片想いって何を“失う”んだろうかって。

片想いって、振られてもその人のこと好きなままだろうし。

「付き合える/付き合えない」に重きを置く人からすると“付き合うというバラ色の未来”を失っているのかもしれませんが、わたしはそんなことはなかったので。むしろ「付き合うなんて烏滸がましい」と本気で思ってましたから。自己肯定感が低いので。


嬉しくなかった自分に気づいたとき、やっと“失恋”した気がしましたね。確実に失ってました、あのときのわたし。なんでしょう。やり場のなくなったエネルギーだけが、どすんと自分の中に残り、ぐるぐるぐるぐると自分の中を刺激して回るような。
あの頃はあんなに縮こまってた心臓が、今じゃこんなに広いのかって。それに気づいてキュッとなる心臓がまた不憫でならなくて。



もう、“好き”じゃなくなったんだなって。



そう思ってましたよ。あの頃はね。


ご飯に行って、初めてあんなに本心から喋れましたね。普段はスベらないように置きに行ったツッコミしかしないので。

そりゃあもう、恐ろしいほど楽しかったです。先方も凄く楽しそうにしてくださって。

わたしは先方にお伝えしました。「もう彼氏もいらっしゃるらしいですし、これ以上“好き”でいることはやめます。ただ、あなたのためにはなりたいから、今日1日楽しんでもらえたならまた誘っていただけませんか?次の1回だけはあなたからお願いします。こちらからは辞められる自信がないので。」と。


おデートが終わった今、思いますね。



「いや早く次の日程決めてくれよ!!!!!!」



わたしは気づいていなかった。いや、気づいてましたけど、気づいていないフリをしていました。

付き合うつもりが元からさしてなかったんだから、恋愛感情を捨てたところで何も変わらないんですよ。

店も予約するし、歩道側を歩かせるし、好きなお菓子を聞けば今度買おうと企むし、相手がナメられていればムカつくし。

やめられねえよ。この距離感。誰がどう読んだって“好き”でしょこんなん。これでいて「好きじゃないです」とか虫が良すぎるよね。

付き合いたい訳じゃないんですけどね。むしろ絶対にわたしみたいなセンスのない男のことは好きになってほしくないんですけど。


でもやっぱり、おかしいって思う自分もいて。

「本当に面白いね」「わたしに対してだけじゃなくて、周りの人にも気が利いて本当に優しいよね」「こんなに誠実にわたしのこと好きでいてくれる人いないよ」「多分今の彼氏よりわたしのこと好きだよ」「実際モテモテでしょ?」とまで言われたのにフラれてるの、マジでおかしくないですか?

ご飯終わってからやっぱりこう思ってしまう自分がいるんですよね。好きでいるのをやめたなら「次に活かそう」って思わなきゃいけないはずなのに。次なんかどうでもいいよ。2ヶ月に1回くらい飯行ってくれよあんた。毎回奢るからさ。金で釣れるなら釣られてくれよ。まあそんな軽い女だとは思ってないですけど。


相手に彼氏がいてもこんなことだらだら言って何度も何度もブログ書いてるの、本当に好きでいるのをやめるタイミングなくないですか?

本来好きでいるのをやめるのって、時の経過しかないと思うんですよ。好きだった人と疎遠になるから、新しい恋を始められるんだと思うんです。まあ、これに今更気づいたんですけど。

この前ご飯に行ったときのわたしは自分でもまあまあ面白かったですし、正直、今後たまには会ってくれるんじゃないかなと思ってます。そうすると、好きな人と定期的に会う環境が揃ってしまうんですよね。


こんなん、無理では?


本当に邪な自分が嫌いになりそうなんですが、「アレだけ褒められるならいつかわたしの魅力に気づいてくれる日が来るんじゃないか」なんてことを思ってしまうんですよね。情けない話で。
まあ実際、“誠実で面白くて優しくて気が利く男”って普通にこれ以上ないほどの優良物件だと思うんですけど。いや何がダメなのか教えてくれよマジで。顔か?顔なのか?やはり顔なのか?それはもう妥協してくれよ頼むからよ。


今後、わたしのことを好きになってくれる女性も1人くらいはいるでしょう。え?いないだろって?いいじゃんわたしのブログなんだし。これくらい希望を持たせてくれよ。

わたしはその人のことを「ごめんなさい。好きな人がいます。相手には彼氏がいるし振り向く気配も一切ないしもう告白して1年以上経ってるし相手ともお互い割り切って呑みに行くような仲だけど、イマイチ未だに踏ん切りがつかないままなので、あなたとは付き合えません。」って振るのかなって思ったら、こんなんとち狂ってません?
わたしは文系なのでこれをなんと言うか知ってます。“狂信的”って言うんですよ。ここテストに出ます。


それこそTwitterでも最近「夜景の見えるレストラン」とかなんとか言ってるじゃないですかわたし。
アレも、先方がこのブログを読んでくださってる(らしい)から成立してると思うんですよ。

わたしが1人の女性への恋心、いや恋なんてシロモノなのかは分かりませんが、その“何か”をズルズル引きずり続けて何度もブログを書くほどの異常者であることが先方に伝わってるからこそ成立してるんですよね。
先方も「こいつほんとバカだなあ」って呆れながらこのくだりに付き合ってくださってるんですよね多分。いや、ちゃんとお話したいしまたご飯を御一緒させていただきたいのは本当ですけどね。そういった気がないってだけで。マジマジ。とても誠実な男ですし美人には嘘つかないですよわたしは。DM待ってます♡(不誠実な記号)


もし先方がこのブログを知らなかったら、わたしってなかなか最低だと思うんですよ。
好きな人がいるのに冗談半分で「デートしましょうよ」って言ってるんですから。

今はまだそういうことがないからいいけど、いつかは絶対やめなきゃいけないし、できるだけ早くやめなきゃいけないんですよね。


“恋心”はないが“献身欲”がある感情のことをこの国で「好き」と呼ぶのかは定かではないですが、この“献身欲”が実際に当人に対して解消できる関係になった今、他の女のことを考えるなんて100%無理なんじゃないかってことに今更気づいてしまいました。



まあ、真実がどうであれ、今はやめる気はないんですけどね。やめられるとも思ってないですし。




先に進むか、今の幸せで立ち止まるか。

進んだ先に幸せがあるかなんて分からないままでも進める人間って、この世にどれくらいいるんでしょうか。




傍から見たら、今のわたしはなんて哀れに映ることでしょうか。それこそ「愛がなんだ」の仲原くんみたいでしょうね。
でもあれは多分、お互い好きなことを言葉にせずにいたから通用した関係性で。


わたしはもう告白をしてしまいましたから。


わたしが今後何をしようと、余程気持ち悪いことをしない限り「ほんとわたしのこと好きだよね〜」と思われて終わってしまう訳ですよね。


絶対にわたしがやめなきゃ終わらないんですよこの関係。


まだ無理だなあ。まだ無理だよこんなの。やっと、3年かけてやっと腹割って話せるようになったんだよ?もう少し楽しみたいよ。これがやりたくて3年間好きだったんだもん。


いつやめられるのかなあ。わたしが相手のことを好きでいる間、わたしのことを好きになってくれる女性もいるのかなあ。いないでほしいなあ、申し訳ないから。



早く他の素敵な女性のこと好きにならないとなあ。


今度聞いてみようかな。「あなたより素敵な女性紹介してもらえませんか?」って。今はそんな人いる訳ないんだけどさ。



むしろいないでくれ。いつまでも憧れていたいから。






目を覚ます。外はまだ暗い。


部屋の明かりも、暖房もついたままだ。


何も消さずに、もう一度目を閉じる。


ああ、眠たい。リモコンどこに置いたんだろう。






Vol.7 朝寝ぼう

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。



お久しぶりです。というより、ブログでは新年初投稿ですね。
今更にはなりますが、あけましておめでとうございます。今年も宜しく御願いいたします。


書く内容は決めていたんですが、シンプルに忙しかったのと、イマイチまとまり切らなくてズルズルと遅くなってしまいました。楽しみにしていてくださった方には申し訳ないです。

新年初回は、ファン待望(?)の恋愛回にしようと思っています。お付き合いください。



では、早速ですが。どうせ長くなるのでね。オープニングは程々に。



突然ではあるんですが、わたしはいわゆる“恋バナ”のようなものが好きでしてね。恋愛小説ばかり読んで恋愛映画ばかり見ている訳ですよ。

一時期はサスペンスの方が好きだったり、コメディの方が好きだったりしたんですが、最近は専ら恋愛ものです。

というのも、恋愛というものは凄く奥が深い。ほとんどの方が経験したことがある。おそらくこのブログの読者の皆様は20歳前後かと存じますが、「未だに好きな人ができたことありません」と胸を張って仰る方は早々いないでしょう。いらっしゃったら申し訳ない。性も多様化している時代ですからね。決めつけはしません。

ほとんどの人が経験してきている、そしてわたしたちだけではなく、その先祖もずっと経験してきている。
わたしは信教はないので細かいことは分かりませんが、アダムとイブには恋愛感情があったでしょうし、スサノオノミコトクシナダヒメと夫婦の契りを結んだ訳です。人の数だけ恋があり、愛がある。


しかしながら、恋愛というものはいかんせん“正解”が分からない。これだけ多くの人がしてきたのに。ただ、なぜかたくさんの“不正解”はすぐに分かるんですよ。

「2人の人を同時に好きになってはいけない」「恋人がいる人を好きになってはいけない」「人の好意を弄んではいけない」というように、恋愛には様々なルールがあります。

しかし、そのルールを守っていたとしても、どこか自分が間違っているような気がしたり、友人が道を踏み間違えているような気がしたりしてしまう。
「あぁ、これでよかったのかな」「あのときこうしていれば」と、人は後悔し、自責の念に駆られる。


正解が不明確なものを漠然と追いかけ続ける。なんと滑稽なことでしょう。
それでも、人は“真実の愛”なるものを追いかけ続ける。自分の持つもの・やってきたことを“真実の愛”だと胸を張って言う人は極めて稀でしょう。仮にいたとしても、恐らくわたしのブログの読者ではないでしょう。完全に偏見ですが。



“真実の愛”とはなんなのか。わたしみたいなひねくれ陰キャオタクには皆目検討もつきませんが、皆様の胸にも問うてみていただければ幸いです。


せっかくなので、“真実の愛”というものがなぜイマイチ分からないのか、というのをわたしなりに考えてみました。


端的に言ってしまえば、「恋は盲目だから」に集約されているような気がします。
恋をしているときというのはやはり主観性が大きくなってしまう。相手しか見ていませんからね。そういった状態をあとから振り返ったときに、客観的に見て「あれは真実の愛だった」と高らかに宣言できる人がいるのか?といったところです。


かくいうわたしも、新年早々例のバイト先の先輩の夢をすでに2度も見てしまっている訳ですよね。まだ10日しか経ってませんけど?10日で2回。このペースだと1年で73回見ることになります。大変気色悪いですね。「恋は盲目」とはよく言ったものです。こんな状態で愛だのなんだの語るような大人にはなりたくなかったですよね。


あっ、「“例のバイト先の先輩”ってなに?」って思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。詳しくはわたしのブログの「Vol.2 Aka」を読んできていただきたいんですが、めんどくさいという方のために以下に簡単に補足を。


「バイト先の先輩に惚れて告白までしちゃったけど当たり前のようにフラれて、そのクセにまだずるずる引きずってブログとか書いてるけど、その間に先方は三重の男と遠距離恋愛に励んでましたよ!w」です。

一応お伝えしておきます。わたしの住所は東京です。その先輩も東京です。三重までは新幹線で往復約25,000円、往復約6時間かかります。名古屋で乗り換える必要があります。こちらからは以上です。


いやあ、端的に言えばしんどいですよね。
別に今更付き合ってほしいなんて思っちゃいませんけど、さすがにねえ。

わたしが未だに夢を見てしまうのに、先方は25000円払ってでも逢いたい男がいる、というのが物凄く攻撃力のある事実ですよね。



今更なんですが、そのブログに“Aka”というタイトルをつけた理由でも記しておこうと思います。せっかく触れたので。
aikoさんの同名の曲が由来になっています。


「目の前に広がる今だけの世界 ここはあなたとわたしの幸せの中だろう」

1日2人しか入らないシフトでしたからね。時間も有限でしたし。刺さりましたね。

「見透かされてる心の果ては どんな匂いがするのだろう」

告白してからもう1年以上経っています。そんな状態でもずっとお互い働き続けている。“自分に告ってきた男”は、先方からはどう映ったのでしょう。
それと、あれだけ赤裸々なブログを書いたときに、読者の皆様からどう映るのか?という意味合いも感じました。全てを見てもらった上でどうなるのか、というような。ひとつの挑戦です。


といったところですかね、主には。よかったら聴いてみてください皆さん。わたしaikoさんめちゃんこ好きなので。その人に合ったものをオススメするよう努めますし。よろしくお願いします。(宣伝)



実際、今までで1番感想をいただいた回は“Aka”だと思います。皆様本当にありがとうございます。

「報われてほしいです」「凄く胸に刺さりました」「凄く切なかったです」など、もったいないお言葉をこれでもかといただきました。心底嬉しかったですし、元気が出ました。
凹んでいたつもりはなかったんですけど、なんというか、力の源になりました。励まされた、というよりはそういった表現の方が適切な気がします。


ああやってブログにして自分の気持ちを整理して、「三重に彼氏がいる」と告げられてから、ずっと考えてたんですよね。「何がいけなかったんだろう」って。

なぜ「NONSTYLEの石田さんと結婚したい」って言ってた人がわたしと付き合ってくれないのか。177cm52kgですよわたし?どう考えたって“妥協”としては適切ですよね。
お笑いも好きだし。話も弾むし。肉じゃがだって美味しく作れるのに。LINEで「だいすき♡♡♡」って言われたこともあるんですよ?さすがに100%は真に受けちゃいませんけど。でも、バイト先の異性の後輩レベルにするようなふざけ方でもないですよねこんなの。ふざけんじゃないよほんとに。

ずっと考えていたら、ひとつ分かったことがあります。「なぜ相手はオードリーさんのラジオを聴かず、小籔さんのラジオを聞くのか」。これが答えでした。わたしに足りないものはコレでしたよ。皆さんお待たせしました。申し上げたいと思います。


わたしに足りないもの。それは。





関西弁です。





\御愛読ありがとうございました!w/
\わたあめさんの次回作に御期待ください!w/



…というね。

すいません。純度100%で悪ふざけです。

でもね、仕方ないんですよ。気づいたときからどうしてもやりたかった。これは本当に申し訳ないです。調子乗りました。


…間違えました。“調子乗ってもうたわ〜(笑)”でした。


…いやほんと、マジで。いや、ジョークじゃないっすか。わたあめジョークっすよ。関西のことバカにしてるとかじゃないです。ほんとに。三重以外は愛してます。好きな球団阪神タイガースですもん。マジマジ。今のところね。うん。本当に許してほしい。悪意はないです。三重に関しては「税率4倍にならねえかな」くらいは思ってますけど。それ以外の府県は本当にMajiでKoiする5秒前なので。勘弁してください。晒さないであげてください。お願いします。





まあ、茶番はさておき。わたしに何が足りないのかっていう話ですよ。


これをずっと考えていて、少し灯りが見えたときがあります。


この前、男友だちと呑みに行きましてね。好きな女の子の話をしたんですよ。お互い。それで日本酒をたらふく呑んだんですが。

どんなに日本酒を呑んでも彼の発言がひとつだけ引っかかりましてね。



彼が好きな女の子について語っているときに、「いい匂いがした」って言ったんですよ。



その場では「気持ちわりぃなあ」と思いました。しかし、冷静になると、それって正直普通なんですよね。そりゃ好きな女の子ですもん。いい匂いしますよ。aikoも言ってたし。


ただ、わたし、自分が好きなあの先輩の匂いが思い出せなかったんですよね。

そこから「あれ?“恋”って、“好き”ってなんだっけ?」となってしまって。


人は恋だの愛だの格好つけますが、結局広く言ってしまえば生殖行為の一環に過ぎない訳で。
つまり、寂しいことを言ってしまえば恋愛には性欲が故の感情なんてあって当たり前なんですよ。むしろない方がおかしい。

匂いを嗅ぎたい、手に触れたい、声が聴きたい、見つめていたい、どれも自然な感情な訳です。いささか気持ち悪い可能性はありますが。


わたしにはそのどれもがなかった。これは別に格好つけてるとかhsってるとかそんなつもりじゃありません。


これは本当に恥ずかしいんですが、わたしがその人を好きになったきっかけは彼女の笑顔なんです。
初めてご飯を御一緒させていただいたとき、わたしはすでに多少意識していたので凄く緊張していた訳ですが、その日に話したときにちょっとしたことで腹抱えて笑ってくれたんですよね。

それを見たときに、安心も兼ねて「ああ、これでいいんだ」と。「こんなことで笑ってくれるなら一緒にいられたら楽しいだろうな」「どちらかが辛くてもお互い笑顔になれるんじゃないかな」「ずっと笑顔で過ごしてもらえるんじゃないかな」と思ったのがきっかけなんです。


つまり、わたしは彼女に心から笑っていてほしい。別に見返りなんてどうだっていい。それだけで十分だと。むしろ、触れたりそばにいたりというのは本来凄く烏滸がましいことだと。
本心からそう思っています。今も昔も。アイドルオタクの性なのか、好きな人を“神格化”してしまうのは悪いクセですよね。今後治していきたい。


話がブレてしまいましたが、本来恋愛、いやもっと言えば“恋”というものは、多少身勝手なものでいいんだと思うんです。多少性欲に忠実なくらいでちょうどいいんですよ。相手のことだっておそらくまだろくに知らないんですから。

しかしわたしがしている“恋”なるものにはそれがない。ほとんどの欲望の主語が相手な訳です。せいぜいわたしが主語なものは「相手が幸せそうなところを眺めていたい」という程度。わたしの主体的な部分がろくに詰まっていない。だからデートなどに心が惹かれないのではないか?“相手の理想像”があっても“相手との理想像”がない。だから一緒にいるビジョンが浮かばないのではないか?と。そう考えました。

自分が“恋”だと思っていたものの漠然とした違和感みたいなものが少し紐解けたような気がしました。
しかし、いかんせんまだよく分からない。


そもそもわたしは、彼女の何が好きになったんでしょう。


前述の通り、恋というものはある程度自身の欲望が詰まったものではないかと思います。わたしの思うものにそれがない以上、これは恋と呼ぶには不適切ではないのか。

「笑顔がどう〜」なんてのは後付けです。だって元から気になっていたんですもの。
「綺麗な方だから」?「彼女が欲しかったから」?「抱けそうだから」?
いや、そんな甘いものじゃない、そんなずる賢いものじゃない、もっと根本的な、何か。



なんとなく、漠然とした記憶なんですが。

「危なっかしいなあ」と思っていた記憶がうっすらとあります。先輩相手になぜそんなことを思っていたのか分かりませんが。


…わたあめブログ耐性がついてきたそこのあなた。このあとわたしはどう進めるでしょう。


そうです、「なぜそう思っていたのか」を考えます。正解したそこのあなた、本当に凄いです。今度お会いしたときには粗品をお渡しするかもしれません。知らんけど。頑張れ、そのときのわたし。



これには先にひとつ少し補足しておきたいことがあります。

昔先輩に言われたんですが、「年上のイケメンを追いかけていたい」、「友だちだと思っていた人から好意を向けられると引いてしまう」という発言があります。年下ブサイクのわたしにはぶっ刺さりでしたね。同じ日に言われたので、中学生くらいだったら泣いてたんじゃないかってくらい辛かったです。


さて、では、なぜ先輩が危なっかしく思えていたのか。


あの人は、凄く弱い人なんだと思います。
自分の“弱さ”というものを受け入れられない。

だから、“年上のイケメン”という“上”に惹かれる。冒頭でも申し上げましたが、「恋は盲目」です。“上”を見ていれば“下”を見なくて済む。自分の弱さ、醜さ、格好悪さ。そういったものから全部目を逸らし、憧れ続けることができる。

だから、友だちだと思っていた人から好意を向けられると引いてしまう。おそらく恋愛という“弱さ”が出る部分を、極力他人に見せたくないのではないかと思います。友だち程度の人間にはそういった関係性を持ち込みたくない。それか、ある種の自己投影みたいなものをしてしまっているのかもしれない。「恋をしている人間はかくも哀れなのか」と。両方かもしれませんが、おそらくそのどちらかではあるでしょう。


なんというか、恋愛を坂に例えるなら、勢いよく手を引いて「ほら、行くよ」と先導するような方と付き合いたいと考えているのが先輩だと思います。



そして、わたしも物凄く弱い人間だと思います。

しかしながら、先輩とは逆で。わたしは自分の“強さ”を受け入れられない。

誰かの上にいると烏滸がましいと思ってしまう。特にそれが好きな人であれば尚更。絶対に好きな人にはわたしより輝いていてほしい。そう思ってしまう。

なんというか、わたしは好きな人の背中を後ろから押しながら、2人でゆっくりと坂を上るような恋愛がしたい。



おそらく、先輩のような恋愛観では不幸になることもあるでしょう。手を離したらすぐに落ちてしまう。
しかしながら、幸せになることもある。手を引いて、坂を駆け上がり、そこから見る景色を慈しむ。そういった楽しみ方がある。

対してわたしのような恋愛観では、相手を不幸にすることは比較的少ないのかな、と思います。後ろから落ちないようにゆっくりと支えているから。
ただ、それと同時に、相手を幸せにすることもないんですよね。先陣切って走ることがない。ゆったりとただ歩くだけ。退屈とでも言いましょうか。



いろいろな人に惹かれ、がむしゃらに、そして無邪気に坂を上がろうとする楽しそうなあなたが、おそらくわたしは下から見ていてとても放ってはおけなかった。そっとあなたの背を押していたかった。そして、何よりも愛おしかった。今ではそう想います。



今のわたしには、あなたの手を引くことはできません。
それにはいささか力不足が過ぎるから。あなたの前を歩んでいくには荷が重いから。

そして、今のわたしはあなたの背を押し続けることも、もうできません。
あなたの笑顔がわたしに向くことはないと気づいてしまったから。あなたには輝いていてほしいから。








わたしね、先輩のことを好きでいるの、やめようと思うんです。



このままわたしがずっと好きでいて、万が一にも振り向いてしまったら、それは先輩の笑顔にならないから。

わたしが下で彼女の背を支えるには、「恋愛感情」なんて甘えは捨てるしかないから。邪魔でしかないから。



彼女の“弱さ”を受け入れるには、わたしは“強く”なければいけない。

こんなこと先方は知らないし、この決意がなんの意味も持たないかもしれない。

でも、これがわずかな光になるなら。わたしはそれを掴みたい。そして、彼女を照らす小さな強い灯火でありたい。





ずっと、本当にずっと考えました。でも、やっぱりこれがわたしなりの答えだと思います。

不思議と辛くもないんです。むしろ清々しいくらいで。
ようやく、手を伸ばすべきところを見つけたような気がしています。






「報われてほしい」「応援しています」と、そういった感想をいただけたこと、本当に嬉しかったです。2回目という段階であれだけの想いをぶちまけて、たくさんの方に受け入れていただけて本当に有難かったです。それだけで報われたような気がしました。改めて、感謝申し上げます。


それなのに、そんなに有難い言葉をたくさんの方からいただいたのに、その全てを裏切るような形になってしまって本当に申し訳ないです。我ながら、凄く情けないと感じています。言葉を扱うこういった場で、皆さんからのたくさんの想いの詰まった言葉そのものをないがしろにするような真似をしてしまうことが自分でも本当に悔しくて、もどかしくて、そして心底腹立たしいです。






でも、どうしてもこうするしかないんです。わたしには、好きでいるのをやめることしかできないんです。





どうしても、どうしてもまだ、彼女を好きでいたいから。












天気雨の朝、傘を目深にかざす。


弱い雨が葉を打ち、陽が鮮やかな彩りを誘う。



ああ、そうだ。歯ブラシ買って帰らなきゃ。







Vol.6 ナイチンゲールの影

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。


あのー、ね、アレです。大晦日じゃないですか。今日。

みんな暇でしょ?紅白とガキ使を行ったり来たりしながらだらだらするくらいしかないじゃない。しらんけど。

まあその、ブログ書き得かなあみたいな。みんな暇だし読むかなあみたいな。そんな邪念の塊が今回です。なんとかして2019年の除夜の鐘でこの邪念をとっぱらいたいですね。


ただねえ、あのー、アレじゃないですか。2019年最後にね。好きな女の話とか、ネガティブな話とかするのもアレじゃない。それなら紅白のようわからん演歌でも聴いてた方がマシですよ。多分ね。知らんけど。


つまり、その、書くことがねえんだわな。普段ネガティブなことしか書いてないから。ないのよ。話すこと。別に。うん。ない。本当にない。


2019年でも振り返るか〜と思ってスケジュールアプリ開くじゃない?ツイッタラーの名前ばっかりなのよ。ツイッタラーと呑み歩いてただけの1年でしたね。その節は皆々様お世話になりました。来年もよろしくお願いします。


どうしたものかと。ええ。まあそうは言いつつ。ブログ納めとして適当にタイピングしてる訳ですよ。ええはい。

今回はアレです。いかにこいつがネガティブな話しかできないのかを楽しむ回です。つまらないことが面白いみたいな。スベリ芸と一緒です。しかとご覧あれ。



ということでね。文字数稼ぎもこの辺でいいですかね。オープニングトークとは思えないくらい喋りましたけど。


何の話をしようかなあと思ったんですけど。


深川さんの話でもさせていただきますか。まだブログで1回も触れてませんしね。

もちろん別に飽きてたとかじゃないですよ。日向坂とかいう小娘に鼻の下伸ばしてる無能モンゴル野郎と一緒にしないでください。

そのー、このブログをね、読んでくださってる方ってほぼまいみんさんな訳じゃないですか。そりゃ「深川さんを敬愛している」という縁で繋がった方がほとんどですしね。

そういった皆さんの前で「深川さんのココが好き!」って改めて言うのも、なんて言うんでしょう、小っ恥ずかしいと言いますか。1つ勇気がいることで。

「そんなこと分かりきってんだよ!」「薄っぺらいことだらだら書くな!」なんて思われちゃったらわたし泣いてしまいます。2019年最後なのに。お手柔らかに。


最初に深川さんのことを知ったのはわたしが高3のときの夏でしたね。受験期でイライラしていた頃です。3年前かな?

ストレス発散にバナナマンさんの番組を見てたんですよね。バナナ塾とか、ブログ刑事とかその辺です。

そうしたらオススメ欄に乃木坂工事中が出てきて。「生駒とかいうやつしか知らねえしそろそろ学んでやるか〜」くらいの気持ちで学び始めました。

その、アイドルって、“一般人”である時期と“芸能人”である時期があるじゃないですか。あの“一般人”の時期がわたしあまり好きになれないんですよね。

仕事なんだから意味わかんないところで泣いてんじゃねえよと思ってしまうタイプで。だからモテないんですかね?まあいいや。
実際初期の方がバラエティとしての完成度も低いと思うんですよね。


とにかく、AKB48では篠田麻里子推しだったわたしは「死んでも橋本奈々未にだけはハマらないからな」という気持ちで乃木坂の動画を見漁りました。

さすがに2グループ連続でお姉さん系のアイドル推すのはねえ…なんか気持ち悪いじゃないですか…(笑)


まあ、フタを開けてみたら、橋川姉妹の動画に当たってしまい、「えっこの人が最年長なの!?」からドツボにハマってしまった訳ですが。


いやあ情けねえよ…、“姉貴がいるのに年上好き”は気持ち悪いって義務教育で習っただろお前…、何やってんだよお前…、昔バイト先の呑み会で変な雰囲気になったの忘れたのかよ…

ちなみにその呑み会、“例の方”は不参加だったので関係ないですよ。今日はその話しませんから。そろそろファン待望(?)の恋愛ブログ回をやりたいなあとは思ってますけど。


あっ、何の話だっけ、そうそう。深川さんがね。最年長なのに可愛らしくて。しかも調べれば調べるほど性格も良いと。しかもファン民度も“3ヶ条”のおかげでそこそこ良いと。最高ですよね。「はい好き〜〜〜」って感じですよ。


…今更だけどなんか今日バカっぽくないか?大丈夫かこれ?まあいいか。ネガティブな話を禁じたひねくれ者の末路だと思ってね。皆さんも年越しそばと一緒に飲み込んでもらえれば幸いです。


まあなんか、長くなりそうなので割愛はするんですけど、あのー、やっぱりあの清らかな心がいいですよね。


わたしドルオタなんですけど、女性の外見にほとんど興味がないんですよ。
あっ別に好感度狙いとかじゃなくて。

そのー、わたしメガネ族なんですけど、裸眼の視力が0.03くらいしかないんですよね。
メガネ族の人なら分かると思うんですけど、メガネ外すときって風呂と布団に入るときくらいしかないじゃないですか。

まあつまりその…あとは分かりますね?^^

気にしたって結局大事なときに見えないのでね。しょうがないと。まあそういう訳です。


話を戻すと、あの深川さんの誰にでも優しい心がいいですよね。なんというか、卑屈な訳じゃないんですよ。「わたしが他の人の分まで…」みたいな感じじゃないんですよね。「他の人が幸せならわたしも幸せだしおっけー◎」みたいな思考なんだと思います。
あの深川さんの思考、難しいですよね。

相手のためにどう立ち回るべきかを理解した上で、そこに自分なりの幸せを見出してる訳ですよ。いやほんと頭おかしくない?

普通、人のために尽くし続けたら「なんでわたしばっかり…」ってなると思うんですよね。いや、深川さんも心のどこかではそう思ってるのかもしれませんけど。
でも、決してそれを表に出さない。

深川さんなりの強さ、たくましさ、可憐さみたいなものを感じます。見習いたいですよねほんとに。



ところでこれはわたしの話なんですが、いわゆる“まいみん”になってからなるべく深川さんに恥ずかしくないように生きようとしてるんですよ。わたしも。

座右の銘が2つあってね。

1.自分と美人には嘘つかない

2.フリーの美人にしか媚びない

なんですけど。最近2個目の方がだいぶ怪しくて頭抱えてますけど。まあそれはさておき。


まあそのー、今年も上手く生きられたかなあなんて思う訳ですよ。そりゃ年末ですしね。

こう、1年を振り返って。自分の胸に手を当てたとき。自分(と美人)に嘘をつかずに生きられたかなあと。


今年は結構わたしにとっては散々な1年でね。

全治1ヶ月の怪我をしたり。好きな人に彼氏がいることが判明したり。いやこの2つが強すぎて他が霞むわ。もうねえわ。いや、あるんですけどこれはまた別の機会に。


…こうやって書いてみると大したことはないのかもしれませんが。


まあそのー、自分と美人には正直にね。2020年も歩んでいきたいですね。

変わらずに生まれ変わっていれば成功するってね、深川さんが道標になってくれてますから。

深夜ドラマ初主演(日本ボロ宿紀行)・ゴールデンタイムのドラマ初出演(まだ結婚できない男)などなど、2019年は深川さんにとって輝かしいにも程がある1年でしたからね。


それを目指して一歩一歩、わたしも進んでいきたい次第です。

ファンがねえ、タレントに負けてたらなんか、情けないじゃないですか。
勝てなくても、追いつけ追い越せの姿勢が大事なのかな、なんて思います。


わたしもそれなりに知名度はあるのかななんて思いますしね、もし今後皆さんの身の回りに新しくまいみんさんが出来たときに、「わたあめさんはいいよ、面白いしなんていうか、“まいみんイズム”みたいなものをちゃんと受け継いでるよ!フォローした方がいいよ!」なんて言われるようにね、深川さんにもまいみんとしても恥ずかしくないように生きていきたいなあと。ええはい。


…締まりが悪いな。ポトポトポットス(誤用)って感じです。



なんかオチがつかなくなったので、欲しいものリストでも置いておきます。2/9が誕生日なのでよろしくお願いします。皆さん手帳にメモっておいてね。


欲しいものリスト

・深川さんのサイン入りグッズ(未所持)(やっぱ運ないね(笑))

・深川さんの生写真(未所持)(まいみんとしてそれなりに知名度あるくせに?)(恥ずかしくないの?)

・床暖房

ジェラートピケの寝間着(男の子でも着られて暖かいやつ)

・松田好花ちゃんの握手会に行けるだけの強靭なメンタル

・単位

・ブログの感想

・そんなに頻繁に連絡を取ったりデートしたりしなくても文句を言わないタイプの彼女

・別にワンチャンはなくていいんだけども、2ヶ月に1回くらい急に飲みに誘ってきて多少ボディタッチをしてきてワクワクさせてくるタイプの女友達(できれば年上)

・某バイト先の先輩からの「卒論終わったけど、ご飯行く?」的な連絡

・「今後も仲良くしていただける」という皆さんからの慈悲(1/12調布行きますよろしくお願いします)

※思いつき次第随時更新予定





さて、長くなりましたが、2019年もあとわずかでございます。


皆様良いお年をお迎えください。


2020年も宜しく御願いいたします。

Vol.5 祈り

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。


いやあ、年の瀬ですな。ほんとに。1年早いですねえ。
これは本当にいろんな方が仰いますけど、年を追うごとに1年が早くなりますね。今年なんか30日くらいしかなかったんじゃないかな?って思ってます。

ほんとびっくりですよね。多分これ還暦を迎える頃には世界新記録バリのスピードで通り過ぎるでしょうね。ベン・ジョンソンかな?つって。「いやベン・ジョンソンはドーピングしてもうたやないか〜いwww」つって。「クスリ、ダメ絶対」つって。
改めて振り返ると、今年はクスリにうるさい1年でしたねえ。雪だるまつく〜ろ〜つって。ギリギリでいつも生きていたいつって。別に…つって。もうNHKも激おこぷんぷん丸だよつって。ねえ〜ほんとに。



…あっ、バレました?緊張してるの。いやはや、お恥ずかしい。緊張してると喋りすぎてしまうんですよねえ。インディアンスみたいなもんです。


というのも、アレなんですよね。


まいみんさんに何人かブログを書いてる方がいらっしゃるんですけど、立て続けに更新し始めて。
しかも、なんか妙にみんな熱のあるブログなんですよね。

しかも、なんでか分からないんですけどわたしがまいみんブロガーの中では結構年上なんですよね。下手したら群を抜いての最年長とかじゃない?みたいな感じで。
あっ、ブログ書いてる方いらっしゃったらURL教えてください。拝見させていただくので。

しかも、最近のわたしハガキ職人とかやってるし。文才で露骨に負ける訳にはいかないんですよ。ツイートが面白いで評判のわたあめさんだと風の噂で聞きましたし。実際ずっとお笑いとか見てきましたしね。


とにかく、これはプレッシャーですよ。下手なもの書けないです。高校生だのなんだのに負けられねえよ。私文の意地を見せてやりますよ。まあ、得意科目は数学なんですけどね。



まあオープニングトークは程々に。そろそろ真面目に喋り出しますかね。


とは言うものの。何を書きましょう。クリスマス?正月?1年の振り返り?
いろいろ考えてるんですけど、どれもしっくり来ないんですよねえ。そんなネタじゃ他のまいみんブロガーに勝てません。

まあ、ブログに勝ち負けなんてものは本来ないんですけどね。みんな書きたいことを書いてるだけなので。

しかしながら、周りの出来が見えるというのは大変精神的に悪い。トリになればなるほどハードルが上がる。M-1みたいなもんです。


そういえばM-1ありましたね。わたしあの雰囲気好きなんですよ。

なんとなく、ギラギラしてますよね。
周りの出来が露骨に反映される。だからこそ、心が揺れる。
目の前でウケたコンビがいると、「負けてたまるか」と思う。しかしながら笑ってしまう。いや、「負けてたまるか」と思うからこそ笑うのかもしれません。武者震いみたいなものでしょうか。

周りを尊敬しているからこそ出る感情だと思うんですよね。「こいつらはコレだけやってる、だから俺らもそれに応えなきゃ」と。それが生み出すひとつの爆発力みたいなものがお笑いの大会には物凄く溢れている。あの雰囲気がたまらなく好きです。


わたしにとっての今回のブログは、それなんですよね。
わたしからすればこれは御礼です。
やってくれたじゃねえかと。絶対にお前らより面白いもん書いてやるからなと。刺さるもんを見せてやるよと。若い者には負けてられませんよという意地だけが今、わたしの筆を進めています。


しかしまあ、ブログってものは面白いですね。Twitterとは違う面白さがあります。

Twitterなんてものは、いわばピエロだと思うんですよ。
みんながみんな仮面をつけて、世間体を気にして、わざとおちゃらけて周りを楽しませる。やりたい放題やる。そんなところでしょうか。

対してブログっていうのは、ピエロの舞台裏のように感じます。
仮面を取り、誰にも見られず、1人でタバコを吸い、空を仰ぐとき。子どもたちに見せる顔とは真逆の面を見せるような。わたしにはそんな風に映っています。


いろんな方のブログを拝見していると、その人それぞれの色がとても強く出ています。


ある者は力任せに塗りたくった、油絵具のような黄色。ある者は海のように深く、そして暗い青。ある者は水彩絵の具でしょうか、透明で繊細な色遣いの中にひっそりと刺す薄い赤。こんなところでしょうか。

まあこれはわたしの独断と偏見で、誰が誰と言うつもりはないんですがね。


わたしのブログにはどんな色が映るのかなあって自分で考えてみたんです。


自分で言うのも恥ずかしくなってしまったので、ひとつズルいことを言わせていただきます。


わたしのブログは、描き込みすぎた鉛筆画のデッサンなのかなと。

余分な線がたくさん混じって、必要なものなんてほんの少ししかない。しかしながら、どこか味があるモノクロの世界。見る者によってつける色が変わる。そんな感じかなあと。


ここからはもっと恥ずかしいんですが、なんでそう思ったのかという話をさせていただきます。


わたしの色って、端的に言って映りにくいと思うんですよ。
蛇足ばっかり、回りくどくて要点は言わない、カッコつけたがり。本当にブロガーとしては最低です。


なんでそんなことになってしまうのか。


わたしがお喋りなのは皆さん薄々勘づいてはいらっしゃると思うんですが、そんなわたしでもどうしても苦手な話がひとつあるんです。

もうこればっかりは緊張してしまって上手く喋れない。おちゃらけないと処理できない。そんなジャンルがある訳なんです。



それは、自慢話なんですよ。



これはどうしてもできない。どうやったらいいのか分からない。ふざけて水を濁すことしかできない。しかしながら、ブログなんてものは自分で好き勝手に思考を話す訳ですから、いかんせん自慢話としての側面も持つ。
「わたしはこんなことが言いたいんですよ」と。その本質を見抜かれないように見抜かれないようにと雑談でひた隠しにすると、毎回こんなに文字数が伸びてしまいます。



たとえば昔、大学に受かったとき、合格体験記を書けと言われました。

端的に言って、書けなかったんですよね。自分の体験を改めて思い起こすことができなかった。

どうしてもと言われて書いたものは、学歴社会批判をしました。
「学歴社会なんてものはクソだ、こんなものは人の本質を見抜けていない。しかしながら、この世が学歴社会である以上、それがないと人に声は届かない。だから不満があってもやるしかない。不満があるならあるほど、わたしたちはやるしかないのだ。この世を変えてやるために。」そんな切り口だった気がします。もちろんこんな口調ではないですがね。

さすがにダメでしたね。書き直せと言われました。

個人的には凄い面白いと思ったんですけどね、一旦批判した上で飲み込むしかないっていう論調。筋は通ってますし。

だってみんな興味あります?会ったこともない先輩の合格体験記。ないでしょ。「〇〇時間勉強して〜」とか。そら人それぞれ得手不得手があるんだから大して参考にならんだろと。わたしはそう思ってしまうんですよね。


まあそんな話はさておき、合格体験記。

なかったな〜、話すこと。マジで。そういうドヤ顔エピソードを話すの苦手なんですよね。自分の成功を糧にするアドバイスみたいなもの。なんとなくしっくり来ない。


というのも、人は失敗を後悔することは多い。
「なんであのときあんなこと言ったんだろう」「なんでこんなことしたんだろう」。そんなことを思うことは多い。

しかしながら、成功したとき。「わたしのアレが良かったなあ〜」と思う人ってそんなにいないと思うんですよね。成功した以上、それを回顧することは“自分磨き”にしかなりませんから。もし同じことをするとなれば、同じようにすればいいだけ。反省会的なものがあまり意義を持たない。幼い頃からそんな風に思っています。

“自分磨き”をひけらかす合格体験記って改めて考えるとマジやべえよ。露出プレイかな?(笑)



クソみたいな下ネタはさておき、その結果がコレ。相当のひねくれ者が出来上がりました。悲しいですねえ。


なぜこうなってしまったのか。


というのも、自己肯定感が皆無なんですよね。わたしはずっと負け組だという意識が強い。

幼稚園の頃、いじめられていたらしいです。あまり記憶がないし今回は掘り下げませんが。

小学校の頃、好きな女の子がいました。まあ、その子が好きな男の子は幼稚園でわたしをいじめていた奴なので、2年くらいずっと恋愛相談を受けていたんですが。

中学受験は第一志望校に合格し、小学校同学年の中 では1番偏差値が高い学校に入りましたが、会ったこともない保護者連中から「そんなに頭良いわけないだろ(笑)まぐれまぐれ(笑)」と負け惜しみを吐かれていたらしいです。

高校に上がって、なにか変えなきゃと思って彼女を作ったら、当時信頼していた5人くらいのうちの2人が学年中に全部バラしたので高2くらいからずっと学年で浮いてました。多分5本の指には入る嫌われ者でしたかね。


どうですか。わたしの20年。これでも真面目に振り返ってますよ。普通に呑みながら友だちに聞かれても同じように答えると思います。

つまり、幸せに重きを置かず、ずっと失敗の中で足掻いてきた結果、プラスの想い出がひとつも残らなかったんですよね。マイナスを超えてこないと言うべきか。


いつからか、勝つことが居心地が悪くなってしまいました。高みの見物をキメている自分を想像すると、憎たらしくて仕方がない。

敗北を味わったときに、「負けだ負けだ」と。負け惜しみを言う。勝者を尊敬する。「凄いなあお前は」と。「俺にはそんなこと出来ないよ」と。
それでいいんですよ、もう。


もう、それがいいんだ。


こんな惨めな想いをする人は、ひとりでいいんだよ。



ここで言うんですよ。幸せな人は。

「逃げてるだけじゃないか」と。

「お前のそれは甘えだ」と。


甘えることの何がいけないのか。わたしの人生、生きたいように生きさせてあげてくれや。高みを目指すことだけが全てじゃねえだろうにと。

嫌なんだよ、もう。自分が惨めだって分かってるから。人がこんな風になるとこ見たくねえんだよ。わたしが泥被って済むならそれでいいじゃねえか。


所詮暴論ですよ。分かってる。都合良く自己犠牲に置き換えてカッコつけてるだけ。屁理屈ですこんなものは。屁理屈に頼る他なかっただけです。

プライドと共に背負い込むことより、プライド諸共捨てることをわたしは選んだ。ただそれだけの話です。


もう敗者なんですよ。心の根幹が。負け犬根性みたいなものが根付きすぎた。負け犬の心にしか寄り添えなくなった。勝負もプライドも何もかもから逃げた、哀れな意気地なし。だっせえな。



ところで、この世には「負け犬の遠吠え」という言葉がありますね。


なぜ負け犬って、“遠くに”吠えるんでしょうか。



個人的な想像なんですが、誰にも届かないからなんですよね。誰もそばにいないから。声がよく響くんですよ。誰も寄り添っていないから。声を出さないと誰にも聞こえないんですよ。

腹いせに妬み嫉みだけで言ってないですよ、きっと。
ただバカデカい声で「クソが」と、「次は見てろよ」と、そんなことを言ってるだけじゃないと思います。

負け犬は負けを受け入れている。待っているだけです。他の勝負を。待ちわびているだけです。応援してくれる人を。誰か見てくれと。俺はまだまだやれるんだ。そう信じさせてくれと。そんな切実な想いなんじゃないですかね。

ただ、その声が、誰にも届かないだけです。



さて、こんなわたしでも、未だに誰にも負けたくないことがひとつだけあります。



それは言葉です。話術です。



中学生時代、中高一貫男子校で女の子と話さない日々を過ごしたわたしは恐怖心を抱きました。将来モテたかった。自分の何かを変えたかった。その一心で夢中でお笑い動画を見た。バラエティ番組を見た。

御存知の通り、こんな陰キャです。生まれつき面白かったなんてことはない。死に物狂いで体で覚えた。せめて何か希望があればと。
顔も良くない、オシャレでもない、気の利いたことも言えない、グルメでもない、でも、でも、とにかく、何か一つでもできればと。

芸人にだって負けたくない。養成所がなんだ。職業がなんだ。“テレビで売れる”という訓練と、“面白い”という才は、近いとしても必ずしもイコールではない。付け入る隙は必ずある。


そうやって早6年ほどでしょうか。

パ桑野大喜利で一発当選。オードリーANNのハガキで一発採用。


今年を振り返ると、これはやってやったな、という感情が1番強いです。周りの人からも「面白い」と言っていただけることは段違いに増えた。こうしてブログを書いて、わざわざ「面白かったです」と伝えていただけることも増えた。本当にありがたいです。





でも、それでも。


それでも、好きな人は遠距離恋愛を選ぶ。


皮肉にも、「モテたい」という願いだけはいつまで経っても叶わないですね。それが目的で始めたのに。


彼女はお笑い好きなのに。劇場に通うほどなのに。「私、NONSTYLEの石田さんと結婚したいんだよね〜」と言っていたのに。石田さんだってそれなりにひねくれているのに。わたしだって177cm52kgのヒョロガリなのに。

クリスマスにご飯に誘われたのに。冗談半分でも「だいすき」と言われたのに。三重よりずっと近いのに。何度も何度も「本当に面白いね」と言われたのに。あなたをただ笑わせていたいだけなのに。


何がダメだ。何が足りない。何があればいいんだ。
教えてくれよ、なあ。



聞こえねえよな、そりゃそうか。





ところで、最近『愛がなんだ』を再読して、テルコとナカハラの違いについて考える日々が続いていました。あいつらの何が違うのかと。
いろんな友人に聞いて回りました。わたしはナカハラだが、いや、もはやナカハラ以上だが、決してテルコではないらしい。

好きな人になりたいテルコと、好きな人を少しでも支え続けたいナカハラ。


ひとつだけ思ったことがあります。
彼らの想い人が「やっぱり気が変わった。付き合ってやってもいい」と言い出したとき、おそらく如実に差が出るんですよね。


あれは恋愛作品ではないという感想を拝見しました。アイデンティティの喪失だと。

好きな人を一途に思うことでしか、自分の価値を見い出せない、そんな哀れな大人の末路だと。

「好きな人の何かでありたい」ということでしか存在意義を実感できなくなってしまった、孤独な者の成れの果てだと。




人には得手不得手があり、当然足りないものがあります。仕方のないことです。


しかし、それがどうしても乗り越えられないほど高い壁であったとき、何を思う。決して見過ごせないほど大きなものであったとき、何を企む。四方を囲まれ、暗く、光が差さない闇の中で、どう足掻く。
もがき、苦しみ、そして叫んだあと、何を見る。お前はそこに何を賭ける。


お前にとっての壁とはなんだ。“恋愛”か?“話術”か?“社交性”か?



いや、違う。分かってる。否が応でも分かってる。腹が立つほど気づいてるだろう。


それさえあれば。何にも執着せずに済む。自分を赦すことができる。


それだけが見つからない。一歩一歩、戻り方も分からないまま、彷徨い続ける。


そうするしかねえんだよ。背負ってみやがれ。クソ野郎。





今日は、クリスマスイブですね。


街ゆくカップルは、瞳の奥に何を見るんでしょう。



はあ、息が白い。冬はまだ続く。

Vol.4 すべてがFになる

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。


突然にはなりますが。



わたしってなんの価値があるんでしょう。



…いや、違うの、あの、そういうことじゃないのよ、失恋して疲れたとか就活に疲れたとかそういうんじゃないのよ、これはほんとごめんなさい、わたしの悪ふざけです、失礼しました。


シンプルに思うわけです。

例えば、皆さんがこのブログを読んでいるところを脇から友だちに覗かれたとします。
「何読んでんの?」「ブログ」「え、誰の?」と言ったあと。皆さんならなんて返すんでしょうか。


「なんかTwitterのヤバい人」「面白いけどひねくれてる人」「優しい変な人」。

まあ大体この辺でしょうか。唐突な自己分析で恐縮ですけど。


Twitter、現実両方でいろんな人と関わってきて、最近のわたしが言われる褒め言葉って基本的に「優しい」か「面白い」なんです。嬉しいね。ありがとうございます。
まあそりゃね、好きな人が彼氏持ちになってもあーだこーだ言って尽くしてる訳ですからね、コレを無理やり褒めてあげるなら「優しい」か「面白い(笑)」に終着することは至極真っ当とも言えます。


ここなんですよ。優しいことや面白いことに価値があるのかという話。

大体の親は子を「優しい」と言って育てますし、面白いってそりゃね、わたしのことが好きで関わってくださってる方々からしたらそりゃわたしは「面白い」でしょう。それが見たくてお話してくださってるんでしょうし。今後とも精進していきたい次第。

つまり、この2つは客観性が皆無なんですよ。根拠が乏しいと言った方が正確でしょうか。あくまで一面的に見た上で判断する他ない訳です。


しかしながら、ある程度客観性を持つ情報もこの世にはあります。
例えば頭脳。全国模試で1位をとった子は頭が良いですよね、だって全国規模で1位なんだから。偏差値というものもあります。それを見たら一目瞭然です。
模試の規模によっては判断できないだろとか言い出す屁理屈おじさんは黙ってください。そんなんじゃ三重の男に女とられますよ。


とにかく、客観性を孕むものは主に数字で表されています。つまり、数が価値を表す訳です。
皆さんの使ってる時計に「これの価値は?」と言い出すやべえおじさんが現れたら、大体の人は時計の値段を言う訳ですよ。それが価値として1番客観的だから。万が一「ママに買ってもらった財布で想い出がすごい詰まってるから…ひゃくまんえん!」とか言い出す18歳以上がいたら謝りますが。

対して、優しさや面白さというものはほとんどの場合で数値化がされません。お笑いコンテストなんかもネタの完成度やその場の雰囲気を評価してるといった印象の方が強い。つまり、面白いネタが作れるということはその人が面白いということとは必ずしもイコールではない。華々しくショーレースで結果を上げた芸人がバラエティだと何も出来ないなんてケース、にゃ○こス○ーなんかで見たことあると思います。


腹立つんですよ。これ。腹立ちません?

自分の長所とされるものが客観性ないんですよ?つまり、主観的なことしか言えないわけですよ。
「わたし優しいんですよ!」「あんなことしてあげたしこんなことしてあげたし…」と。こんな惨めでダサいことないですね。優しさや面白さってやつが数値化される時代はいつなのか。「優しさ検定1級」とかでドヤりてえな。


最近はAIで感情を理解できるなんて話もありますよね。その域まで行くとそういった部分を数値化できるんでしょうか。わたしは学がないので分かりませんが。


そろそろ理屈っぽくて文系の大学生さんにキレられそうですね。まあわたしも文系なんですけど。

優しさだのなんだの言ってますけどね、1番腹立つのは女ですよ。「優しい人が好き!」って。男の90%くらいは抱けそうな女には優しくする生き物って義務教育で習わなかったんですかね。残りの10%近くはトランスジェンダーとかそこらです。つまりよくいる類の男ならみんなそんなもんってことです。ここメモっといた方がいいよ。


話の本筋が見えにくいですかね。
つまり、「優しい」だの「面白い」だのそういう女が求める要素に限って数値化されず、学力だの財力だのばかりに目がいってしまう世の中腹立つなっていうモテないぼっちの愚痴です。
優しいし面白いけど学も金もないために女1人大切にできず三重に逃げられた男の愚痴です。…え?三重ネタしつこい?それくらい想いがあるんだから仕方ないじゃない。許してよ。わたしのブログなんだし。


なんで優しさとかが数値化されないのか考えてたんですよ。恋愛相手の条件にもなるくらいなんだから、少なくともこういう項目の数値化ってある程度需要があるんじゃないかと。
財力とか学力とか、そういったものよりもっと推し量るべきなものがあるんじゃないかと。

これはわたしなりの結論でなんの根拠もないんですが、多分怖いからなんですよね。
どうします?全てが数値化できる世界線で「お前の優しさはゼロだよ(笑)」って言われたら。なんとなく、財力ゼロよりショック受けません?わたしだけかな?

つまり、内面の数値化はおそらくパンドラの箱な訳ですよね。開けたくても開けちゃいけない箱な訳です。自分に何もなくても、逃げ道として使えるように。

「優しいってよく言われます」って逃げられるように。


ひえ〜生きるってしんどいですね。あまりに鬱ブログばっかり書いてて好感度落ちそうな気がしてきました。

でも、同時にこんなことも思いました。
数値化されてるものって、あくまで些細なことに過ぎないのではないか?と。

学力・財力・身長・体重などなど、現代ではあらゆるものが数値化されてます。でも、そういうものって「数値化されていてもなんとかなるから」なんじゃないかと思うんですよね。
多少劣っていても、それは人として本質的なことじゃない。だから数値として差別化しても、それは他でカバーすればいい、そういうことなんじゃないかと。

数字に拘るより、あるべきように生きたらええんちゃうかと。今日はそんなメッセージ性を込めてみました。ブログのアクセス数が思ってたより多いのでちょっと見栄を張ってみました。


人の心の機微が数値化されたらどうしましょうね。人の価値ってやつの代名詞になるんでしょうか。


そうなったら、わたしの価値は一体おいくらになるんでしょうか。



多分、格安でしょうね。このブログが1ミリも面白くないので。


今回のタイトル、「すべてがFになる」についてなんですが、わたしはよく知らないんですけどあの話って16進法の話らしいですね。16進法でいうと最初の位の最大値である15がFになる、ということが由来らしいです。
話は変わりますが、わたしの大学では落単するとFという評価がつきます。


もし、わたしの全てが数値化される世界が来たら最大値がつくのか、落単の証がつくのかは定かではありませんが。



それでは今回はこの辺で。ご自愛ください。


優しさくらいしか取り柄がない子ですが、今後ともよろしくお願いします。