Vol.5 祈り

どうもどうも。御機嫌麗しゅう。


いやあ、年の瀬ですな。ほんとに。1年早いですねえ。
これは本当にいろんな方が仰いますけど、年を追うごとに1年が早くなりますね。今年なんか30日くらいしかなかったんじゃないかな?って思ってます。

ほんとびっくりですよね。多分これ還暦を迎える頃には世界新記録バリのスピードで通り過ぎるでしょうね。ベン・ジョンソンかな?つって。「いやベン・ジョンソンはドーピングしてもうたやないか〜いwww」つって。「クスリ、ダメ絶対」つって。
改めて振り返ると、今年はクスリにうるさい1年でしたねえ。雪だるまつく〜ろ〜つって。ギリギリでいつも生きていたいつって。別に…つって。もうNHKも激おこぷんぷん丸だよつって。ねえ〜ほんとに。



…あっ、バレました?緊張してるの。いやはや、お恥ずかしい。緊張してると喋りすぎてしまうんですよねえ。インディアンスみたいなもんです。


というのも、アレなんですよね。


まいみんさんに何人かブログを書いてる方がいらっしゃるんですけど、立て続けに更新し始めて。
しかも、なんか妙にみんな熱のあるブログなんですよね。

しかも、なんでか分からないんですけどわたしがまいみんブロガーの中では結構年上なんですよね。下手したら群を抜いての最年長とかじゃない?みたいな感じで。
あっ、ブログ書いてる方いらっしゃったらURL教えてください。拝見させていただくので。

しかも、最近のわたしハガキ職人とかやってるし。文才で露骨に負ける訳にはいかないんですよ。ツイートが面白いで評判のわたあめさんだと風の噂で聞きましたし。実際ずっとお笑いとか見てきましたしね。


とにかく、これはプレッシャーですよ。下手なもの書けないです。高校生だのなんだのに負けられねえよ。私文の意地を見せてやりますよ。まあ、得意科目は数学なんですけどね。



まあオープニングトークは程々に。そろそろ真面目に喋り出しますかね。


とは言うものの。何を書きましょう。クリスマス?正月?1年の振り返り?
いろいろ考えてるんですけど、どれもしっくり来ないんですよねえ。そんなネタじゃ他のまいみんブロガーに勝てません。

まあ、ブログに勝ち負けなんてものは本来ないんですけどね。みんな書きたいことを書いてるだけなので。

しかしながら、周りの出来が見えるというのは大変精神的に悪い。トリになればなるほどハードルが上がる。M-1みたいなもんです。


そういえばM-1ありましたね。わたしあの雰囲気好きなんですよ。

なんとなく、ギラギラしてますよね。
周りの出来が露骨に反映される。だからこそ、心が揺れる。
目の前でウケたコンビがいると、「負けてたまるか」と思う。しかしながら笑ってしまう。いや、「負けてたまるか」と思うからこそ笑うのかもしれません。武者震いみたいなものでしょうか。

周りを尊敬しているからこそ出る感情だと思うんですよね。「こいつらはコレだけやってる、だから俺らもそれに応えなきゃ」と。それが生み出すひとつの爆発力みたいなものがお笑いの大会には物凄く溢れている。あの雰囲気がたまらなく好きです。


わたしにとっての今回のブログは、それなんですよね。
わたしからすればこれは御礼です。
やってくれたじゃねえかと。絶対にお前らより面白いもん書いてやるからなと。刺さるもんを見せてやるよと。若い者には負けてられませんよという意地だけが今、わたしの筆を進めています。


しかしまあ、ブログってものは面白いですね。Twitterとは違う面白さがあります。

Twitterなんてものは、いわばピエロだと思うんですよ。
みんながみんな仮面をつけて、世間体を気にして、わざとおちゃらけて周りを楽しませる。やりたい放題やる。そんなところでしょうか。

対してブログっていうのは、ピエロの舞台裏のように感じます。
仮面を取り、誰にも見られず、1人でタバコを吸い、空を仰ぐとき。子どもたちに見せる顔とは真逆の面を見せるような。わたしにはそんな風に映っています。


いろんな方のブログを拝見していると、その人それぞれの色がとても強く出ています。


ある者は力任せに塗りたくった、油絵具のような黄色。ある者は海のように深く、そして暗い青。ある者は水彩絵の具でしょうか、透明で繊細な色遣いの中にひっそりと刺す薄い赤。こんなところでしょうか。

まあこれはわたしの独断と偏見で、誰が誰と言うつもりはないんですがね。


わたしのブログにはどんな色が映るのかなあって自分で考えてみたんです。


自分で言うのも恥ずかしくなってしまったので、ひとつズルいことを言わせていただきます。


わたしのブログは、描き込みすぎた鉛筆画のデッサンなのかなと。

余分な線がたくさん混じって、必要なものなんてほんの少ししかない。しかしながら、どこか味があるモノクロの世界。見る者によってつける色が変わる。そんな感じかなあと。


ここからはもっと恥ずかしいんですが、なんでそう思ったのかという話をさせていただきます。


わたしの色って、端的に言って映りにくいと思うんですよ。
蛇足ばっかり、回りくどくて要点は言わない、カッコつけたがり。本当にブロガーとしては最低です。


なんでそんなことになってしまうのか。


わたしがお喋りなのは皆さん薄々勘づいてはいらっしゃると思うんですが、そんなわたしでもどうしても苦手な話がひとつあるんです。

もうこればっかりは緊張してしまって上手く喋れない。おちゃらけないと処理できない。そんなジャンルがある訳なんです。



それは、自慢話なんですよ。



これはどうしてもできない。どうやったらいいのか分からない。ふざけて水を濁すことしかできない。しかしながら、ブログなんてものは自分で好き勝手に思考を話す訳ですから、いかんせん自慢話としての側面も持つ。
「わたしはこんなことが言いたいんですよ」と。その本質を見抜かれないように見抜かれないようにと雑談でひた隠しにすると、毎回こんなに文字数が伸びてしまいます。



たとえば昔、大学に受かったとき、合格体験記を書けと言われました。

端的に言って、書けなかったんですよね。自分の体験を改めて思い起こすことができなかった。

どうしてもと言われて書いたものは、学歴社会批判をしました。
「学歴社会なんてものはクソだ、こんなものは人の本質を見抜けていない。しかしながら、この世が学歴社会である以上、それがないと人に声は届かない。だから不満があってもやるしかない。不満があるならあるほど、わたしたちはやるしかないのだ。この世を変えてやるために。」そんな切り口だった気がします。もちろんこんな口調ではないですがね。

さすがにダメでしたね。書き直せと言われました。

個人的には凄い面白いと思ったんですけどね、一旦批判した上で飲み込むしかないっていう論調。筋は通ってますし。

だってみんな興味あります?会ったこともない先輩の合格体験記。ないでしょ。「〇〇時間勉強して〜」とか。そら人それぞれ得手不得手があるんだから大して参考にならんだろと。わたしはそう思ってしまうんですよね。


まあそんな話はさておき、合格体験記。

なかったな〜、話すこと。マジで。そういうドヤ顔エピソードを話すの苦手なんですよね。自分の成功を糧にするアドバイスみたいなもの。なんとなくしっくり来ない。


というのも、人は失敗を後悔することは多い。
「なんであのときあんなこと言ったんだろう」「なんでこんなことしたんだろう」。そんなことを思うことは多い。

しかしながら、成功したとき。「わたしのアレが良かったなあ〜」と思う人ってそんなにいないと思うんですよね。成功した以上、それを回顧することは“自分磨き”にしかなりませんから。もし同じことをするとなれば、同じようにすればいいだけ。反省会的なものがあまり意義を持たない。幼い頃からそんな風に思っています。

“自分磨き”をひけらかす合格体験記って改めて考えるとマジやべえよ。露出プレイかな?(笑)



クソみたいな下ネタはさておき、その結果がコレ。相当のひねくれ者が出来上がりました。悲しいですねえ。


なぜこうなってしまったのか。


というのも、自己肯定感が皆無なんですよね。わたしはずっと負け組だという意識が強い。

幼稚園の頃、いじめられていたらしいです。あまり記憶がないし今回は掘り下げませんが。

小学校の頃、好きな女の子がいました。まあ、その子が好きな男の子は幼稚園でわたしをいじめていた奴なので、2年くらいずっと恋愛相談を受けていたんですが。

中学受験は第一志望校に合格し、小学校同学年の中 では1番偏差値が高い学校に入りましたが、会ったこともない保護者連中から「そんなに頭良いわけないだろ(笑)まぐれまぐれ(笑)」と負け惜しみを吐かれていたらしいです。

高校に上がって、なにか変えなきゃと思って彼女を作ったら、当時信頼していた5人くらいのうちの2人が学年中に全部バラしたので高2くらいからずっと学年で浮いてました。多分5本の指には入る嫌われ者でしたかね。


どうですか。わたしの20年。これでも真面目に振り返ってますよ。普通に呑みながら友だちに聞かれても同じように答えると思います。

つまり、幸せに重きを置かず、ずっと失敗の中で足掻いてきた結果、プラスの想い出がひとつも残らなかったんですよね。マイナスを超えてこないと言うべきか。


いつからか、勝つことが居心地が悪くなってしまいました。高みの見物をキメている自分を想像すると、憎たらしくて仕方がない。

敗北を味わったときに、「負けだ負けだ」と。負け惜しみを言う。勝者を尊敬する。「凄いなあお前は」と。「俺にはそんなこと出来ないよ」と。
それでいいんですよ、もう。


もう、それがいいんだ。


こんな惨めな想いをする人は、ひとりでいいんだよ。



ここで言うんですよ。幸せな人は。

「逃げてるだけじゃないか」と。

「お前のそれは甘えだ」と。


甘えることの何がいけないのか。わたしの人生、生きたいように生きさせてあげてくれや。高みを目指すことだけが全てじゃねえだろうにと。

嫌なんだよ、もう。自分が惨めだって分かってるから。人がこんな風になるとこ見たくねえんだよ。わたしが泥被って済むならそれでいいじゃねえか。


所詮暴論ですよ。分かってる。都合良く自己犠牲に置き換えてカッコつけてるだけ。屁理屈ですこんなものは。屁理屈に頼る他なかっただけです。

プライドと共に背負い込むことより、プライド諸共捨てることをわたしは選んだ。ただそれだけの話です。


もう敗者なんですよ。心の根幹が。負け犬根性みたいなものが根付きすぎた。負け犬の心にしか寄り添えなくなった。勝負もプライドも何もかもから逃げた、哀れな意気地なし。だっせえな。



ところで、この世には「負け犬の遠吠え」という言葉がありますね。


なぜ負け犬って、“遠くに”吠えるんでしょうか。



個人的な想像なんですが、誰にも届かないからなんですよね。誰もそばにいないから。声がよく響くんですよ。誰も寄り添っていないから。声を出さないと誰にも聞こえないんですよ。

腹いせに妬み嫉みだけで言ってないですよ、きっと。
ただバカデカい声で「クソが」と、「次は見てろよ」と、そんなことを言ってるだけじゃないと思います。

負け犬は負けを受け入れている。待っているだけです。他の勝負を。待ちわびているだけです。応援してくれる人を。誰か見てくれと。俺はまだまだやれるんだ。そう信じさせてくれと。そんな切実な想いなんじゃないですかね。

ただ、その声が、誰にも届かないだけです。



さて、こんなわたしでも、未だに誰にも負けたくないことがひとつだけあります。



それは言葉です。話術です。



中学生時代、中高一貫男子校で女の子と話さない日々を過ごしたわたしは恐怖心を抱きました。将来モテたかった。自分の何かを変えたかった。その一心で夢中でお笑い動画を見た。バラエティ番組を見た。

御存知の通り、こんな陰キャです。生まれつき面白かったなんてことはない。死に物狂いで体で覚えた。せめて何か希望があればと。
顔も良くない、オシャレでもない、気の利いたことも言えない、グルメでもない、でも、でも、とにかく、何か一つでもできればと。

芸人にだって負けたくない。養成所がなんだ。職業がなんだ。“テレビで売れる”という訓練と、“面白い”という才は、近いとしても必ずしもイコールではない。付け入る隙は必ずある。


そうやって早6年ほどでしょうか。

パ桑野大喜利で一発当選。オードリーANNのハガキで一発採用。


今年を振り返ると、これはやってやったな、という感情が1番強いです。周りの人からも「面白い」と言っていただけることは段違いに増えた。こうしてブログを書いて、わざわざ「面白かったです」と伝えていただけることも増えた。本当にありがたいです。





でも、それでも。


それでも、好きな人は遠距離恋愛を選ぶ。


皮肉にも、「モテたい」という願いだけはいつまで経っても叶わないですね。それが目的で始めたのに。


彼女はお笑い好きなのに。劇場に通うほどなのに。「私、NONSTYLEの石田さんと結婚したいんだよね〜」と言っていたのに。石田さんだってそれなりにひねくれているのに。わたしだって177cm52kgのヒョロガリなのに。

クリスマスにご飯に誘われたのに。冗談半分でも「だいすき」と言われたのに。三重よりずっと近いのに。何度も何度も「本当に面白いね」と言われたのに。あなたをただ笑わせていたいだけなのに。


何がダメだ。何が足りない。何があればいいんだ。
教えてくれよ、なあ。



聞こえねえよな、そりゃそうか。





ところで、最近『愛がなんだ』を再読して、テルコとナカハラの違いについて考える日々が続いていました。あいつらの何が違うのかと。
いろんな友人に聞いて回りました。わたしはナカハラだが、いや、もはやナカハラ以上だが、決してテルコではないらしい。

好きな人になりたいテルコと、好きな人を少しでも支え続けたいナカハラ。


ひとつだけ思ったことがあります。
彼らの想い人が「やっぱり気が変わった。付き合ってやってもいい」と言い出したとき、おそらく如実に差が出るんですよね。


あれは恋愛作品ではないという感想を拝見しました。アイデンティティの喪失だと。

好きな人を一途に思うことでしか、自分の価値を見い出せない、そんな哀れな大人の末路だと。

「好きな人の何かでありたい」ということでしか存在意義を実感できなくなってしまった、孤独な者の成れの果てだと。




人には得手不得手があり、当然足りないものがあります。仕方のないことです。


しかし、それがどうしても乗り越えられないほど高い壁であったとき、何を思う。決して見過ごせないほど大きなものであったとき、何を企む。四方を囲まれ、暗く、光が差さない闇の中で、どう足掻く。
もがき、苦しみ、そして叫んだあと、何を見る。お前はそこに何を賭ける。


お前にとっての壁とはなんだ。“恋愛”か?“話術”か?“社交性”か?



いや、違う。分かってる。否が応でも分かってる。腹が立つほど気づいてるだろう。


それさえあれば。何にも執着せずに済む。自分を赦すことができる。


それだけが見つからない。一歩一歩、戻り方も分からないまま、彷徨い続ける。


そうするしかねえんだよ。背負ってみやがれ。クソ野郎。





今日は、クリスマスイブですね。


街ゆくカップルは、瞳の奥に何を見るんでしょう。



はあ、息が白い。冬はまだ続く。